匿名実名論争(笑)に関する問題

 
 感覚的に気付いてる人がさんざんツッコんだ後になったけど、セキュリティ屋の視点から書いておく。
 オンラインで一般人が実名や顔写真を継続的に晒して個人を同定させることはハイリスクであって、一般に薦められる性質のものではない。ましてや住所までとなると正気の沙汰ではない。
 
 テーマ:実名*1と匿名*2によるリスクとメリット
 結論:強い理由がなければ実名を選択すべきではない。
 理由:オンラインでの実名は実社会に比べてハイリスクである。
 

論拠

 
 オンラインで個人を同定させる情報を継続的に出すことは、実社会を上回るリスクを抱える。
 
 実名、少なくとも個人の同定が可能であるレベルの実名は、実社会において顔と名前が一致するレベルに相当する。つまり、一部の実名主義者が度々例として出す「社員証を首からぶら下げて昼飯を食いに出かける会社員」は不適当だ。通りすがりに社員証を確認して歩く者はいない。誰だっていちいちそんなことはしないし、俺だってしない。
 となると、個人が同定できる範囲は意外と狭いことに気付く。同じ町内でもたいした範囲ではない。せいぜい隣近所の数軒くらいのものだろう。あとは町内会か。マンション等では管理組合などでもう少し隣近所の範囲が広いかもしれないが、都心部の賃貸等では住人同士が個人を同定できることはあまりない。間を取って、100人程度としよう。
 これに勤務先や学校などの友人関係、同僚、上司部下、取引先などが関係者として個人を同定できるだろうか。営業マンなどは名刺交換の機会も多く、そこそこの付き合いであれば個人を同定できる範囲は広い。しかし、一般的な事務職や工場労働者などは社外との交流に乏しい。ここも間を取っておおよそ100人と仮定しよう。
 
 日常的に付き合いのある範囲として、個人を同定できる人が自分を中心に200人いる、つまり『自分を同定できる人が周囲に200人いる』というのが実社会だ、と、調査もせずに仮定する。実の所、2000人でもあまり結果に差はないのだが。
 
 対してオンラインの場合。ちょっとしたブログなら数百の読者はついているだろう。その数百の読者のうち二割がブログを持ち、やはり数百の読者がいたとしよう。ちょっと目立つ記事を書いたら、一つ先のブログで紹介されて総計で最大数万の視線を受けることになる。
 ここで個人が同定できる情報を出していた場合、『自分を同定できる人が数万いる』ということになる。ただし、この相手を自分は同定できない。
 紹介してくれたブログを読んだ別の読者がさらに紹介・・・と連鎖すれば、エントリを読みに来る読者の数はさらに増えるだろう。
 
 つまり、オンライン上で自分を同定できるだけの情報を出すということは、実社会より広い範囲で自分を同定させることになる。それだけではなく、実社会では自分を同定できる相手も同定できるため、『彼とは付き合わない』という選択が可能だ。しかしオンラインではそれが難しくなる。相手が同定できないからだ。
 
 同様の事例が実社会で無いわけではない。たとえば飲食店。ホットペッパーなどに店の紹介を出すのは宣伝のためだが、あれも『自分は読者を同定できないが、数千から数万の読者は自分を同定できる』という状態になる。ブログでちょっと目立つ記事を書いたときに匹敵する。
 
 さて。人間の集団には一定割合で異常者が含まれる。犯罪者やストーカーなどの存在だ。人口あたりの犯罪発生率がわかりやすい指標になるだろうか。警察庁の資料*3によると全犯罪認知件数は平成18年で2050850件。205万件といったところ。ここから、個人の同定が不要な、つまり路上のひったくりや暴行といった通りすがりの犯罪を除くと、個人が同定されていなければ防げた可能性のある犯罪の件数が得られる。具体的な数字が出ていないが、路上を含む性犯罪や一部の侵入犯罪、窃盗などを考えておおよそ一割程度が個人を狙ったものと仮定して、20万件程度と仮定する。
 まあ、このあたりの数字も実は論拠そのものにはあまり影響しないのだが。
 
 日本の人口は何人だろうか。国勢調査によれば12,775万人、1.3億弱。*4
 大雑把に、一人あたりの個人狙い犯罪発生割合は0.001%強。1000人に一人の割合ってところ。
 つまり、自分を同定できる人が1000人いれば、そのうちの一人が自分を狙って何か凶行を企てていても不思議は無いと考えられる、ということになる。
 
 
 さて。
 
 実社会では自分を同定できる人はおおまかに200とした。オンラインではそれが数万に膨れ上がる場合が往々にしてある。
 つまり、実社会では『自分を同定できる人を自分も同定できる』状況で、かつ、その200人の中に自分を狙う人がいる可能性が 1/5 程度であるのに対し、オンラインで個人を同定させる場合、『自分を同定できる人の大半を自分は同定できない』状態で、かつ、数人から十数人、あるいはそれ以上に自分を狙う人がいてもおかしくないことになる。
 
 リスクが大幅に上昇していることがおわかり頂けるだろう。つまり、オンラインで個人を同定させることは実社会で普通に生活している状態よりはるかにリスキーとなる。
 
 
 これは警察などが子供向けコンテンツで「住所や名前を教えないように」と指導している理由でもある。下手にオンラインで個人を同定させてしまうのは危険だ。それが社会的に決して強くは無い個人である場合は特に。
 

オンラインで個人を同定させるメリットは一般には無い。

 
 しかし、それでも個人名義で書き手を明らかにして発信している人がいる。そこには何らかのメリットがあるはずだ。論拠として触れた中で飲食店の例を挙げた。これは商売上の理由から宣伝することがリスクを上回るメリットを得られるケースに相当する。一部の実名主義者がよく例に挙げている「才能の宣伝」に相当するだろう。
 しかし、だ。しかしなのだよ。
 オンラインで実名を掲げる理由にはならないのだ。なぜか。
 
 一般の商店であれば、商取引が発生する。飲食店なら来店してもらって飲食してもらう。商店なら商品を購入してもらう。サービスの提供でもいい。つまり、店舗を特定してもらい、来店してもらう必要がある。
 が、オンラインではどうか。優れたコンテンツを発信した。それが認められた。そこに個人を同定する必要はあるのか。
 無い。無いのだ。メールアドレスが到達可能なものでありさえすればよい。ただそれだけなのだ。
 
 いくつか例を挙げると、「やわらか戦車」の中の人は最初からずっと匿名だ。しかし、連絡だけはついたのだろう。あるいは自分からプッシュしてメディアに投稿したのか、どちらにしろ匿名のままで商品展開に至った。予断だが私もコンビニで買ったやわらか戦車の退却ストラップをPDAにつけていた。先日ひっかけて壊してしまったのが悔やまれる。
 「DJラオウ」の中の人も匿名のままパロディ作品をアップしていたが、先日北斗の拳の映画でラオウが主役になったものの公式サイトでひっそりと宣伝コンテンツを提供していた。彼もまた広く個人を同定させずにオフィシャルに認められたというわけだ。
 自分が作り出したコンテンツが認められるために、作者を同定させる必要はない。コンテンツが認められた後に、必要に応じて同定させればよい。
 

オンラインで個人を同定させるメリットがあるケース

 
 では、オンラインで個人を同定させるメリットがマッタク無いかといえば、そうではない。
 コンテンツとして「自分自身」を宣伝する必要がある場合と、個人を同定させることでコンテンツを補強できる場合だ。
 それぞれに考えてみる。
 

自分自身を宣伝する必要がある場合

 
 ネットアイドルのようなもの。あるいは、自分に注目を集めさせて、その次のステップを考えているもの。
 ネット上で個人を同定させる場合、「個人」を宣伝することになる。コンテンツを宣伝するのであればコンテンツが同定できればよいからだ。ならば特定の URL で公開しているものがオリジナルであると宣言した上で公開すればよい。
 ネットアイドルなどの場合、自分自身が商品でありコンテンツでもある。この場合、コンテンツを同定させるという意味と等しく個人を同定する。
 ただし、それは顔写真程度のもので、住所氏名まで明らかにしているものではない。
 また、注目を集めるという意味での個人同定がある。わざわざ顔を出して行動することでリスキーではあるが注目も集められる。ある程度注目を集めたうえで、何らかのアクションを(本題として)起こす、というものだ。あまり多くは無いケースだが、実例として「しょうたん」が挙げられる。
 
 自分自身が同定できなければコンテンツが同定できない以上、リスクを犯してもそうする必要があると判断できたならば、そうすることになる。ただし、多くの芸能人には「熱狂的すぎる一部のファン」がいる。そのリスクは認識しておく必要がある。
 

書き手の個人を同定させることでコンテンツを補強したい場合

 
 研究者や専門家など。自分が専門にしている分野のコンテンツを、作者を明らかにすることで補強することができる。この場合、オンライン以外ですでに個人が認められている必要がある。
 例えば「たけくまメモ」はマンガを含むサブカルチャーの評論家として認められた人が書いている。すでに認められた個人が書いていると明らかにすることで、コンテンツの背景を暗黙のうちに伝達するという方法だ。
 この場合、すでに書き手はある程度広く知られている人物であると考えるのが妥当だ。よって、一般には該当する理由にはなりえない。一般人は通常無名であり、専門分野で認められているケースが少ないからだ。
 
 この場合、すでに書籍等で「『自分を同定できる人の大半を自分は同定できない』状態で、かつ、数人から十数人、あるいはそれ以上に自分を狙う人がいてもおかしくない」状況に達していると考えられるため、オンラインで個人を同定させたとしてもリスクは増大しないか、わずかな増大幅に抑えられる。
 

結論

 
 以上の大きく二つの理由について、一般人がコンテンツを提供するにあたって個人を同定させる理由としては普遍的でないことがわかる。
 その他の理由としては、前述の論拠のリスクが認識できていないなどの無知に由来するものなどがあるだろうか。これは我々セキュリティ屋の力不足が招いた結果であって反省すべき点だが、今論じるべき点ではない。
 
 結論として、広く一般人が個人を同定させるに足りる理由はない。特に「自分自身を不特定多数に売り込む」必要がある場合において、一般人でも個人を同定させるに足る理由を得るにすぎず、そのような理由が無ければ個人を同定させるべきではない。才能に溢れているのであればリスキーなオンラインでの個人同定などを試みず、関連する出版社やレコード会社、タレント事務所に売り込んでみてはどうか。
 
 ただ顕名を声高に叫ぶ行為は、弱者から言論を取り上げる以外の効果をもたらさない。匿名は事実として「弱者の盾」なのだ。被害の発生、相手の矛が身に届く、その率を実際に下げるという意味において。
 

付記

 

リスクマネジメント

 
 リスクマネジメントにおいて、よく次のような考え方が採用されている。

  • リスクの分析
    • 可用性に対するリスク
    • 完全性に対するリスク
    • 機密性に対するリスク
  • リスクへの対処
    • 発生頻度の減少
    • 影響範囲の縮小
    • 移転
    • 許容

 
 このうち、個人を広く同定させることによって発生するリスクは、可用性に対するものと機密性に対するものが考えられる。可用性に対するリスクは、言葉狩りや脅迫、犯罪によって生活が脅かされるもの。機密性に対するものはプライバシーの暴露だ。「ジャングル黒べえ」が放送禁止に至った経緯を考えてみればよい。また、ウルトラセブン第12話について考えてみるといい。コンテンツに対する同様のリスクがはたして一般個人に背負いきれるだろうか。はたして年老いた母や幼い娘を、どこからやってくるかわからない凶刃から常に守りきれるだろうか。
 これらのリスクに対する対処として、「発生頻度の減少」のアプローチを行うのが匿名だ。「移転」のアプローチは新聞や雑誌の無記名記事になる。リスクを記者個人から会社に移転したというわけだ。
 リスクを上回るメリットがあり、かつそれを優先する場合は「許容」することになる。
 
 匿名であってはならないとするならば、大部分の利用者が実名のリスクを許容できるだけのメリットを提示できなければならない。私はセキュリティ屋の端くれとして、オンラインでは個人を同定させるべきではないと確信している。なぜなら、それは危険な行為だからだ。充分に対処できるか、それ以上のメリットが無い限り、個人を不特定多数に広く同定させるべきではない。一般人はリスクマネジメントの一環として積極的に匿名であるべきだ。
 

(余談)黒木ルール

 
 黒木ルールはよくできたルールだ。個人を同定させる情報をハンドルネーム、つまり仮名に置いている。プライバシー情報を適切にコントロールできるなら、実社会とのリンクは不要となる。つまり、オンラインで実社会を超えるリスクに晒されたとしても、その影響範囲をオンラインだけに制限できる。
 これは、個人の同定の作業において実社会の情報を必要としないことに起因する。実社会とリンクしていないから、影響範囲は縮小される。つまり、「影響範囲の縮小」としてリスクマネジメントが実現できている。それだけでなく、ある程度ではあるが個人の同定もできる。
 

(余談)その他の「実社会とリンクさせない個人同定」

 
 たとえばメールアドレス。生きているメールアドレスは利用するために個人で管理しているパスワードが必要になる。メールアドレスが正規のものであれば、少なくとも受信者を同定することはできる。この目的においてフリーメールでも問題ないが、安定してサービスが提供されているものでないと利用者の意に反してメールアドレスを変更することになる可能性があるため、安定した識別符合としては利用できない。
 発信者を同定するなら、電子署名がある。正規の発信者のみが知っているパスフレーズがなければ署名できず、かつ、改ざんされたとしても検出できるため、発信者の真正性まで含めたコンテンツの完全性を証明することになる。広く知られた電子署名方式を利用すればよい。
 

最後に

 
 単純な数値で、個人を同定させる範囲が広くなるとそれだけ個人を狙った凶行の対象にされやすい、ということになる。それがリスクの増大だ。
 先日、「Apache のバージョンを隠すのに意味は無い」といったエントリをアップした。これは「脆弱であるという状態を晒すくらいなら脆弱でない状態にしろ」という内容だが、今回の話題でいけば「脆弱である状態を回避できない」のが個人である。特定思想の団体に狙われたら手も足も出ないだろう。ならば、最後の手段として木を森に隠すしかない。他の手段がないからだ。逆に、個人が脆弱でない場合。すでに著名であったり、一般人のように日々の労働で糊口を凌ぐわけではない人の場合は、脆弱性を持っていないという状態だと考えられる。そのような場合は、Apache のバージョンを隔す理由が無いのと同じように、匿名でなければならない理由もない。リスクが実社会にバックファイアしないのなら、実名を選ぶのもよいだろう。
 
 たいていの個人は脆弱であり、タレントになりたいわけでもない。誰もがみなスカウトされたくて新宿をうろうろしているわけではない。ブログを書く目的が様々である以上、メリットの程度も様々だ。なら、一律にリスキーな方法を押し付けるべきではない。まずはセーフティなアプローチを薦めるべきだ。ハイリスクハイリターンを望むのではなく、多くの場合、ローリターンしか想定していないのだから、ローリスクなアプローチでないとリスクのみが増大してしまう。
 
 無名である初心者がいきなり評価されるようなコンテンツを出せるだろうか。もし出せるなら、どうせ無名なのだから匿名でもいいのではないか。
 無名である初心者が個人を同定させなければ人脈を得られないのだろうか。匿名であってもハンドルが固定されていたなら、それで充分ではないのか。
 
 匿名で始めて、必要なときに必要なだけ個人を同定するに足る情報を制限して出すのが正しい。