ああ、もしかしたら

 
 テレビや新聞に、事実を求めるのが間違っているのかもしれない。
 ネットでは発言者に信頼がほとんど置けない。実績や素性もわからないわけだから。*1
 じゃあ何が?ってことになると、新聞やテレビの報道にイデオロギーや既得権として様々な意見や判断が入っている以上、それを鵜呑みにするってことは「判断を外注したい」ってことだろ。
 
 新聞でそう書いてあった。
 テレビで言ってた。
 
 それは本当か?という判断を「プロだから裏付けくらいしているだろう」という妥協でクリアすると、一次情報に触れていなくても、サンゴに「KY」と彫っていても、石原都知事の発言をカットして字幕で改ざんしても、問題ない。
 で、テレビや新聞はそうやって作り出したニュースをベースに、判断を示し、意見を表明する。それを鵜呑みにするってことは、やっぱ判断の外注でしかない。
 
 ネットの場合は大前提の「裏付けくらいしているだろう」という期待ができない。一次情報を辿れるかどうかで信頼性を担保するしかないわけだ。
 で、それについて判断を下したとして、そこには権威は無い。つうか反論がムッチャ簡単だから、その場でコメントするなりじっくり書いてトラックバックするなりすれば、「いや、こういう見方もある」という反例を挙げることができるし、それはエントリの閲覧者に分け隔てなく伝えることができる。
 つまり、一方的ではなくなるためにどうしても閲覧者は判断しなくちゃいけない。どの意見が妥当なのか、一次情報は正しく読み取られているのか。
 
 つまり、ネットっていうかblogやら2chやらの情報てのは基本的に自分で判断しなきゃならん。このとき、情報の受け手側が「情報の取捨選択と判断」に慣れていなかったら、ノイズに踊らされたり判断を誤るということになる。
 新聞やテレビだと、情報の取捨選択は送り手側がやってくれているし、判断までしてくれる。
 
 んでも、テレビや新聞といった既存メディアはワイドショーとニュースをはっきり分けない限り、そういったニュースの信頼性はどんどん失っていくだろうね。
 時間や誌面に限りがある以上は情報の取捨選択はどうしても必要になるだろうけど、妙なイデオロギーや主義主張はもういらない。
 判断は受け手が行うべきだ。だから、報道は事実だけを伝えるべきだ。コメントや意見はもういらない。
 
 スポンサーがついて、あるいは購読料を取って業務として行うのは第一報と一次資料の提示まででいいよ。
 あとはたぶんネットの中の人たちが追跡していく。情報のハブとして Push 型メディアが生き残り、双方向メディアがそこから発信された情報を分析していくようになるのがベターなんじゃなかろうか。
 

*1:つっても新聞社の記者だって実績も素性もわかったもんじゃないってところでは同じなんだけどね。プロとして最低限は裏付けくらいするだろ?って期待が持てるかどうか、ってラインなのかもしれない