武雄市長樋渡啓祐がちらつかせた国会議員の影によって高木浩光が沈黙した件についての所感

 

 かつて私も炎上型の指摘者だったことがある。高木氏とは比べ物にならないくらい小さなものだったが,それには理由があった。
 当時,私のような存在,つまりはウェブサイトの問題点を指摘するような人は多くはなく,またIPAの取り組みも始まっていない時期だったため個人で通知せざるを得ず,決して好意的には受け入れられるとはいえない状況下にあって,なんとか問題点を理解させるためには,またリスクが顕在化しないうちに対応を迫るには,ある程度の「現実的な指摘」が必要だったのだ。
 
 やさしい指摘者ではいられなかったのである。
 
 叱らねばならなかったのだ。分別のつかない子供を叱るように。そして私は疲れてしまった。だから指摘者であることをやめたのだ。問題があるとわかったらそのサービスは使わない。指摘して修正を待つこともしない。私は疲れているのだ。
 
 だが,高木氏は違った。彼は問題が小さなうちに見つけ出し,それがリスクとして大きくなるかどうかを問う。彼はセキュリティ技術者にとってすばらしく感度のよい共同アンテナのような存在になっていった。共同アンテナというより中継塔と呼ぶのが正しいかもしれない。彼は発見し,発信する。私は彼をウォッチするだけで,まだ顕在化していない社会的なリスクを知ることができた。彼の見つけたリスクが自分にとって納得できるものであれば,そのリスクを低減できる道を探した。
 
 私は疲れているのに。
 
 高木氏が見つける小さなリスクの欠片は,放っておくと大きなリスクとして顕在化する可能性のあるものだった。そして,たいていの場合,そのリスクが顕在化したなら,私はそれを避けることができないだろうという目星をつけることができた。
 私は私のリスクを最小化するために行動した。
 
 高木氏の扱うリスクはプライバシーに関するものが多くなった。それはソーシャルネットワークの普及に伴う,希薄で広範囲なプライバシーの拡散を背景にしていたのかも知れない。
 やがてビッグデータという言葉がバズワードになり,高木氏はより直接的にプライバシーリスクに注目していく。不正アクセス,情報漏えい,そしてプライバシー。氏の視線を追えば,その時々にあったリスクが見えてくる。紛うことなく,高木浩光という人物は,少なくとも私にとっては高性能なアンテナだった。私の視野では見えない,まだ小さなリスクの芽を見出すためには,氏の動向を見るしかなかったのだ。
 リスクは顕在化してから対応するとコストがかかる。小さいうちなら対応するコストも小さくて済む。だから高木浩光が見出すリスクの芽は,それが危険なものに育ちうるとなれば,摘み取らなければならないのだ。
 
 だがしかし。
 
 彼は炎上型,よく言っても劇場型の指摘者である。
 それがゆえに,指摘された側はたまったものではない。リスクを育てているのだと名指しされるわけだからだ。氏は周辺を固めて論拠を確立してから指摘に入る。さながら外堀も内堀も埋めてから城攻めに大砲を使うような手法である。攻められた城はそもそも弱点を指摘されているのだから陥落するのは時間の問題である。
 
 それでも。
 
 彼は高性能なアンテナであった。確かにそこにはリスクがあり,見逃せない萌芽があった。高木氏にどのような意図があったにせよ,彼の動向を見守ることはそれだけで大きなメリットがあったのだ。
 
 しかして,彼は沈黙せしめられた。
 政治的にリスキーな施策を,リスクの萌芽を指差したためである。
 彼は沈黙した。
 
 政治的にまずい行動を起こしつつある政治家に対して苦言を呈したことによって高木氏は沈黙に至った。これは本来あってはならないことである。何故ならそれは民主主義の根幹であるからだ。高木氏は常に言論を持って行動を示した。何が問題であるのか論拠を明らかにし,どうすべきかを指し示した。もちろんそこに叱責があり,時には強い言葉も混じったが,それでも高木浩光は実力を行使しなかった。あくまでも個人・高木浩光として行動し,その所属を背景にすることはなかった。だからこそ彼は支持を得ていたのだろうと思う。
 もちろん,支持が集まれば支持者の数が背景になることは間違いない。しかし,それは彼自身,彼個人が勝ち得たものであった。彼の支持者は彼を支持したが,彼に権力は与えなかった。あくまでも彼は彼自身の力でもって行動したのだ。
 だが,彼は沈黙させられた。彼が相対した人物の力によってではなく,彼が相対した人物が頼ろうとした別人の影によって,である。
 
 ここに彼が相対した人物の行いを非難しなければならない理由がある。
 その人物は己を指して「私は政治家だ」と応えた。ならばである。
 
 市井の人物が問題を指摘したことに対し,その口を封じるためにより権力を背景にする人物をほのめかせる行為が政治家のそれとして妥当であろうはずがない。
 武雄市長樋渡啓祐は政治家として行ってはならないことをしたのである。
 
 よって高木浩光は沈黙した。
 
 由々しき事態である。これは一人の指摘者がその行動を妨げられただけではない。曲がりなりにも首長たる人物が己の意に沿わぬ人物の口を封じるために行った民主主義への反逆でさえある。
 議会制民主主義国家において政治家は市民の代弁を行う。ならば政治家が市民の口を封じることは政治家の存在する理由,その根幹さえ揺るがすのではないか。
 
 武雄市は注目を浴びた。それゆえにこれまで見えなかった問題にまで視線が延びることとなった。
 確かに財政健全化に向けて市の債務を減らすなど功績もあった。しかし,それが問題行動を見逃す理由にはならないだろう。
 そして高木浩光が沈黙した後,セキュリティに携わる者がどのように行動すべきか。メインカメラを失ったガンダムに乗っているのは,決してニュー・タイプではないのだ。
 
 高木浩光が沈黙したことによる損失は大きい。
 最早,やさしい専門家の手には負えないのだ。あれほどアグレッシブかつ戦略的な指摘者ですら沈黙させられるのなら,やさしい専門家は最早語る術を持たない。
 
 損失はあまりにも大きい。